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清朝から中華民国へ 激動の100年

清朝から中華民国へ 激動の100年

中国最後の統一王朝が滅亡し、中華民国が1912年に成立してちょうど100年。
今年は中国にとって記念的な年であります。
今回、辛亥革命から中華民国の成立までの政治の側面、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀の人生、そしてこの劇的に変化を遂げた時代の人々の暮らしや文化を写真を通じて見てみたいと思います。

辛亥革命そして中華民国建立へ

辛亥革命そして中華民国建立へ

1800年代のアヘン戦争、そして日清戦争の敗退により顕著となった清朝の弱体化、また満州人の国家である清朝の古い体制への不満に対する、変革を求める思潮が知識人を中心とする人々の間に起こり始めていました。
知識人や海外から戻ってきた留学生、華僑たちを中心とした一般人たちや兵士たちの間で団体が各地で組まれ、1895年から各地で改革を求める武装蜂起がおこり、1911年には武昌起義と呼ばれる決定的な反乱が湖北省にて起こります。
これを機に各省が次々と清朝から独立をし、1912年1月1日革命家・孫文を臨時大統領とする中華民国が成立しました。
同年2月15日に袁世凱が大統領に就任し、袁世凱率いる共和政府により2000年以上続いた王朝時代は幕を閉じました。

  • アヘン戦争(1941年1月7日)

  • 康 有為(1858-1927)

  • 1911年10月、武昌起義における革命軍が大砲を移動させている場面

  • 武昌起義 塹壕から清軍による砲撃の様子

  • 武昌起義 北京から武漢に向けて南下する準備をする清軍

  • 孫文(孫中山)(1866-1925)

  • 1912年の元日、上海から南京へ戻ってきた孫文は中華民国大統領に就任する。

  • 南京にて、孫文が臨時大統領就任時に上院の創立総会に出席した時の集合写真

  • 1912年、宣統帝の退位後、袁世凱が孫文に続き大統領となる。

  • 袁世凱による、孫文が理事長を務める国民党の弾圧によって、孫文は一時日本に亡命する。1913年に来日時の様子。孫文の革命に共鳴し資金援助をおこなった梅屋庄吉らが写っている。

  • このころ孫文は後に中国人民共和国副主席を務めることになる宋慶齢と日本で結婚している。

ラストエンペラー 愛新覚羅溥儀

ラストエンペラー 愛新覚羅溥儀

光緒帝の死後、西大后の指名により、溥儀はわずか3歳にも満たない年で清朝の皇帝となりました。
宣統帝という称号を与えられ、北京の紫禁城で戴冠式が行われました。
辛亥革命に続き、わずか4年後の1912年に溥儀は皇帝の座を退位することとなりますが、退位後も「大清皇帝」の称号を保持し、紫禁城の中で数千人の宦官や女官らに囲まれ暮らし続けるという取り決めが、幼い溥儀本人は理解する事もなくなされました。
その後16歳となった溥儀は婉容を皇后とし、文繍を側室として紫禁城に迎いいれました。
溥儀は外国人を帝師とし西洋文化に親しみ、また、清朝の伝統である辮髪を自ら切り落とし、宦官や女官を紫禁城から排除するなど近代的な変革を行ったと言われています。
しかし、その頃紫禁城の外では政治的な動乱が起きており、北京政変と呼ばれるクーデターで馮玉祥率いる直隷派軍閥により、1924年溥儀は紫禁城から追放されることになります。
その後、満州への進出を目論んでいた日本軍に操られる形で、溥儀は1934年日本の支配する満州国で皇帝の座に舞い戻りました。
日本の敗戦ともに溥儀も「戦争犯罪人」として約10年間の拘留生活を送り、その後一般人としてその劇的な生涯を終えたと言われています。

  • 西太后(1835-1908)

  • 向かって右側の子供が3歳の溥儀。座って溥儀の手を取っているのが溥儀の父親の愛新覚羅 載灃、そしてその膝に座っている赤子が弟の溥傑である。

  • 子供時代の溥儀 1908年

  • 1900年頃の紫禁城の入り口

  • スコットランド人の溥儀の家庭教師レジナルド・ジョンストン(1874-1938)

  • 宮中に住む宦官たち。紫禁城内の美術品の盗難に対して目録を作らせようとした溥儀であったが、それは宦官たちの美術品の所蔵されていた建物への放火事件によって失敗した。怒った溥儀は宦官たちを全員解雇した。

  • 文繡(1909-1953)

  • 婉容皇后(1906-1946)

  • 1932年の溥儀と婉容

  • 1932年関東軍司令官、そして満州国駐在特命全権大使の武藤信義と議定書の署名を行った際の写真。

  • 日の丸の前に座る溥儀。関東軍に操られる事実上の「皇帝」という座にすぎなかった。

  • 10年間の投獄生活、そして中国共産党の教育を受けた後、北京植物園の庭師となる。

変わりゆく文化

変わりゆく文化

満州人の治める清朝は、漢民族の統治していた明朝に対抗するため、満州文化を国中に浸透させました。
満州族の伝統の頭髪である辮髪や伝統衣装が一般人にも強制され、19世紀までに全国に普及したと伝えられています。
しかし、清朝末期には漢人たちの民族主義の高揚によって漢民族の文化を復興しようとする動きが起こり、また同時に、アヘン戦争後の条約港の開港を機とする欧米や日本の文化や資本の流入、植民地化による西洋化が進んだことで満州文化は次第に薄れていきました。
そのような時代の流れの中、1912年の中華民国の建立は中国の文化に決定的な変化をもたらしました。
辮髪や満州人の民族衣装に限らず清朝以前から残る古い風習などが、民主的な近代国家を目指す中国政府によって一掃され、特に都市部では見られなくなってゆきます。

  • 1900年頃の清朝の満州人女性たち。旗袍と呼ばれる満州の貴族の衣服付け、両把頭と呼ばれる典型的な清の時代の満州貴族の女性のスタイルをしている。旗袍は現在のチャイナドレスの原型となった。

  • 1644年に出された満州民族の辮髪を強制する「薙髪令」は1911年にまで続いた。

  • 纏足で小さくされた足。元々唐末期から中国の女性が行ってきた風習であったが、それは清時代の女性の間でも続いた。1900年以降、特に辛亥革命以降の近代化への流れの中で薄れていった。

  • 1900年上流階級の女性。纏足の靴を履いている。

  • 清朝末期、アヘンを吸う人々。イギリスの植民地貿易によって清に持ち込まれ、そして第2次アヘン戦争後大量生産されたアヘンは清国民に普及した。

  • 1917-19年 アヘンやその吸引器具を燃やす様子。度々のアヘン禁止令が出されたがなかなかその習慣を一掃する事は難しかった。

  • 1900-10年 北京の頤和園の風景

  • 1910年の北京 Lloyd Street

  • 1910年の上海 アヘン戦争後、条約港となった上海にイギリスを含む欧米列強国や日本などが進出した。西洋の建物が立ち並ぶ。

  • 中華民国初期の写真。それぞれ、西洋式のスーツ、伝統的な長袍、そして孫文が日本留学中に学生服や軍服からそのヒントを得て作らせたのが始まりだという人民服を着る男性たちの姿。後に中華人民共和国となってからは、人民服を1980年頃まで男子も女子も着用する事になる。

  • 辮髪の三つ網を切る事は、清朝の伝統を断ち切るという象徴的な行為であったであろう。

  • 1911年2月Le Petit Journal誌より。中国の近代化を紹介している。

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